『叛逆航路』『亡霊星域』『星群艦隊』 [link]
Ann Leckie(著), 赤尾秀子(訳), 創元SF文庫, 2015年
SF小説にこんなこと可能なのか、と頭を殴られたような衝撃。
「デビュー作には全てが詰まってるの法則」を考えたのはどこの誰やらよく分からないそうですが、この小説はちょっと飛び抜け過ぎていて色々なスタンダードの取り敢えず外側に置いておくのがよさそうです。
この表紙はかなりミスリードで、いわゆる軍事系のスペースオペラど真ん中(スターウォーズ的な圧政を敷く皇帝 vs. 反乱軍といった巨大勢力同士の惑星系を跨いだ大宇宙戦争サーガ)を期待して読むと、ほぼ完全に裏切られると思います。確かに巨大宇宙軍艦は出てきて、確かにそれが主人公ではあるんですが…。それが面白いことに、普通、この世界設計ならまず間違いなく上に挙げたような英雄物語になっちゃうんですけど、それが全然違う。僕はどちらかというと(特に軍事系の)スペースオペラ風味はちょっと苦手で、ハインラインだったら『宇宙の戦士』よりも『月は無慈悲な夜の女王』が良い。『エンダーのゲーム』(O. S. カード)を読むなら『タイタンのゲーム・プレーヤー』(P. K. ディック)の方が良いな(不毛な比較)。アシモフだったら『ファウンデーション』よりも『鋼鉄都市』の圧勝だと思っています(これはそもそも『鋼鉄都市』が最強すぎるので分が悪い)。ともあれ、これが裏切られその1。
その2。三人称は性別の区別なく基本的に「she」です。これをアシューラ・K・ル=グイン(特に両性具有人種を扱った『闇の左手』, 蛇足ですがこれもとんでもなく素晴らしい作品です)の後継とみてフェミニズムの文脈で解釈される方も少なくないようです。が、ひとまずそれは脇に置いて、純粋に小説上の技巧としてこれは大成功しています。小説世界の登場人物を脳内で解釈するために、性別が第一義的に大きなウェイトを占めている、とこう書いてしまうと何となく、そりゃそうだろうと思う方が多いと思います。そりゃそうなんですが、登場人物の性別が不安定になると、ここまで認知的大混乱になるのかと思い知らされました。その大混乱が全編にわたって効果を発揮するように緻密に計算されています。表紙に人物が全く出てこないのはこれが理由で、画像にできないんですね。
3つめ。1人称が凄い。何と表現するべきか、多点同時平行主観とでも言うべき技法です。おそらくこの点がアイディアの一番の底にあって、それを実現するための舞台・舞台装置として先に挙げた2点があったのかなと思います。これも「肉体」と「意識」の1:1対応という小説の解釈において基礎の基礎になっている要素を大混乱に陥れます。1人の登場人物の時系列はシングル・カラムであるという大原則が乱れた時、何を物語るか、ということです。
さて、この3点をまとめると「スペースオペラっぽい舞台設計でも本質的に全く異なり、登場人物の性別は曖昧で容姿に関する言及は排除され、かつ主観的時系列がぶっ飛んでいる」ということになります。何でこれで物語が成立するのかというと「この社会のこの立場でこの状況に置かれたらこうなる」という説得力が素晴らしいからで、この奇妙なリアリティに酔う体験こそ、小説の持つチカラだと思います。インスタやyoutubeで映像を使った情報伝達が大盛況のなか、文字でしかできない物語表現も確かにここにあるという醍醐味のような読書体験でした。
で、やっぱり言及しておくのは、これが「he」だったら、つまりこの作品に登場する全ての人物が男性性であると明示したとしても、実際には、物語上の影響はほとんどありませんし、認知的な混乱も穏やかだと予想されます。これは特に宇宙軍を舞台にしたSF小説が「オトコのモノガタリ」とされ続けてきた、世界観に対する刷り込みの影響が大きいと思います。先ほど脇に置いたフェミニズム的な文脈も確かに強く感じます。『たったひとつの冴えたやりかた』で有名なジェイムズ・ティプトリー・ジュニアも、ハリー・ポッター・シリーズで有名なJ. K. ローリングもペン・ネームを意図的な男性的なものにしたのは性別が職業上の差別的待遇に紐づいていたからだと言われています。オトコノモノガタリ幻想が特に強いのが軍事系スペースオペラで、この作品はそれを逆手に取っているとも言えます。それにしても、最古のSF小説といえばメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818年)でしょう。SF小説がオトコノモノだったことは人類史上一度もありませんので、そうした幻想・妄想はナンセンスです。作品表現におけるジェンダーの扱いが何かと騒がしいですが、逆さメガネを掛けて周囲を見渡すことも大切だと思います。
2019年11月17日