知里 幸恵(訳編), 岩波文庫, 1978年 [link]
“Shirokanipe ranran pishkan, konkanipe ranran pishikan.”
「銀の滴ふるふるまわりに、金の滴ふるふるまわりに」
アイヌ語を母国語とされる著者1が、口伝で伝わる神謡(yukara もしくはyukar)の発音をローマ字であて、和文の翻訳を添えているのがこの本です。驚くのは、序文の日付が大正11年=1922年なので、ざっくりと100年前。 「おお亡びゆくもの・・・・・・それは私たちの名」。 重度の心臓病をもった19歳の女性が、故郷を離れた東京の地で100年前に記した文字表現の何と豊かな事かと思います。その僅か半年後に亡くなられ、行年二十歳と記されています。
1つには、文字の力とはこれだという事です。言語は自己情報を外部化して固定する機能を持っていますが、特に文字は時空間を超えた伝播性が高いという特性があります。この本を読む事で、まさに時間と空間を超えてアイヌの口伝に触れることができます。一方で、情報を文字に圧縮するプロセスの中で時間構造が固定されるので情報量の欠損は大きくなります。例えば、この神謡の持つ韻律やリフレインの美しさは文字の上には載りません。著者が表音文字としてローマ字を、表意文字として日本語をそれぞれあてた理由はここにあるわけです。冒頭の引用に戻り、口ずさみながら訳文を眺めると、いかにも表現として豊かに伝わってきます。
実弟の言語学者である知里 真志保氏の解説が収録されていますが、その中で、神謡とは本質的には舞踏を伴った音楽的な韻律を伴っていたと指摘されています。また、この神謡集がそうであるようにアイヌの神謡の多くが1人称視点で語られ、これを口伝として発声するヒトはその都度「梟の神」や「海の神」になりきるというスタイルが取られます。韻律と音楽的なリフレインと恐らくそこに伴われた舞踏に含まれる身体性社会表現が融合し、口伝の場に信仰的なトランス状態が生まれ、共同体の絆を強める方向に作用していたのかもしれません。音楽なき言語はあるのか、というのは面白いですね。
逆説的には、これが文字言語の限界です。いくら口ずさんで訳を読んでも、文字化するプロセスの中で失われてしまった豊かな情念を体感することは、実際には不可能です。身体性と知覚からなる主観的な固有世界を環世界2と呼びますが、言語が失われるということはその話者らの環世界を再現不能に加配することを意味します。現在進行形で、4ヶ月に1つの割合で音声言語が絶滅しているという指摘もあります3。
現代を「情報化」社会と呼ぶのなら「情報解析」を生業とする者としてどのように「情報」と向き合うのか。ユーカラのリフレインに脳味噌を揺らしながら思うところです。
2019年1月12日