Michael Gazzaniga(著), 藤井 留美(訳), 紀伊國屋書店, 2014年 [Amazon]
この本の驚くべきところは、これが実際の講義の再編だという点です。この知の塊のような厚みのある内容を、口頭でリアルタイムに伝えるというのはただ事では無い。伝わる側の聴衆もスゴイとしか言いようがないですね。
ページの上端を折りながら読んだということはinputの本に分類されていたという事です。この本は2周したので写真ではその合計分だけ折れてます。
折れているページは大きく分けて2箇所でした。 最初のパートは、第1章「私たちのありよう」、第2章「脳は並列分散処理」および第3章「インタープリター・モジュール」の序盤といった箇所でした。ここで議論されているのは、なぜ自己は統一されているのか、あるいは統一されているという意識作用とは何か、という話題です。
真正面からこの疑問に取り組むというのは勇気がいります。生物学の入り口で教わるのはヒトは多細胞生物です、という話ですね。何せこの段階で具体的なイメージが湧かない。ヒトの身体中の細胞を全部数え上げると、文字通り数えきれない。文字通り「あっ」と言っている間に細胞はドンドン死んでいるしドンドン生まれている。大雑把に数え上げるとだいたい37兆個だそうです[1]。やれやれ。動的平衡[2]という言葉も流行りましたが、37兆個の細胞が、崩壊と新生の平衡を取りながら1個の生物体を成しているのがワタシであるというのは仰天の事実です。もっと言えば、その37兆個の細胞は単にそこに存在しているだけでなく、その内部にあるデオキシリボ核酸の配列コードに基づいてタンパク質を生産し細胞としての機能を維持しながら他の細胞からの化学・電気シグナルを受け取り連動的に作用し続けているわけです。今現在も。これら極めて精密に時空間的連動を実装している“ミクロなプロセス”に対し、意識とは随分と大雑把にコントロールされている“マクロなプロセス”です。これは、パソコンで文章を書くという行為に熟練してくると、ほとんど意識せずに指がキーボードを適切な順番で打つ事にも似ています。意識がやっているのは「どんな文章を出力するか」までで「それを実際に出力する運動」はほとんど意識の外側で行われる。で、あれば意識作用とは一体何なのか、という事ですね。これが前半。
後半では第5章「ソーシャルマインド」のパートがよく折られています。相似な議論をすれば、ヒトが1人でいたらソーシャルもヘチマも無いのが、2人になり3人になり、突然、社会が生まれる。ヒト1人でも手に負えないのに社会という状態をいかに科学的に捉えるのか。これは大きな課題です。特に現在の神経科学的アプローチ(のほとんど)は「対象を1つ切り出してきて制御下に置いた上で、特定の表現系が突出して現れる状況に誘導し、それに対して仮説検証を行う」という枠組みなので、自由な2者の交流でしか現れない社会性という問題をどう解くのか。これは大問題です。この本でもまずまず基盤的な知識の紹介と、部分と全体の対称性の破れからくる創発という作用について概説しています。
他の章について言及する素養は僕には無いですが、後段の倫理云々のところは、筆者自身が言及しているように、神経科学には限りなく時期尚早に思えます。ヒトの脳の理解は、社会的正義について理論的根拠として有効なレベルには全く達していないというのが僕の意見です。しかし筆者の言うように、望むと望まざるとに関わらず、既に社会の多くの側面において神経科学的評価(例えば脳画像に基づく診断)が顔を出している現状、あるいはその未来において、神経科学はどういう役割を担っていくのか。もう一度、我々自身について全てを知った気になっている自意識というモノの足元をキチンと見つめるには良い本かと思います。
一点注意するべきなのは、この本の元になる講義は2009-2010年に行われており、この記事を書いている2018年(の末)からすると、知見はほぼ10年昔のものです。その後多くのアップデートがあり、いくつかの内容は上書きされるべきだという点を付記しておきます。ただまあ、あらゆる知識はそういうものですね。教科書を疑え、というのはそういう意味だと思います。
[1] An estimation of the number of cells in the human body., Bianconi E et al., Ann Hum Biol. 40(6):463-71. 2013
[2] 動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか, 福岡伸一(著), 木楽舎
2018年12月28日