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書評:『闇の左手』

アシューラ・K・ル=グィン(著), 小尾 芙佐(訳), ハヤカワ文庫, 1978年 [link]

民俗・民族的境界に対する写像の深淵。最高に魅力的で格好いい1冊。

上の写真は2011年発行の28刷。原作は1969年の発表だそうです。アシューラ・K・ル=グィン(Ursula K. Le Guin)は日本では「ゲド戦記」シリーズの著者と言うと伝わるかもしれません。『影との戦い』『こわれた腕環』『さいはての島へ』の三部作は小学校の図書館で読みました。その後、『帰還 -ゲド戦記最後の書-』が出ると知った時は小躍りしたものですが、あの時、僕はまだ小学生だったんですね。この『帰還』は小学校にはなかなか入らなくて市営の図書館まで行って借りて読んだんだったと思います。僕は見ていませんがアニメ映画になったようです。『こわれた腕環』が特に印象的です。僕がこの『闇の左手』を手に取ったのは大学生になってからで「ゲド戦記」の作者というのは後から知り、おお、と懐かしくなりました。ル=グィンが作り出した世界の中で「ゲド戦記」はアースシーと呼ばれる舞台で展開するのに対し、本書の舞台はHainish Cycle, 日本語ではハイニッシュ・ユニバース)と呼ばれます。書かれた年を確認すると、『影との戦い』が1968年、この『闇の左手』が1969年とほぼ同時代で、そのクリエイティビティには驚かされます。読む側は15年ぐらい経ってまた出会うというのは不思議なものです。そこからこの本は(例によって)買っては友人や友人?に貸したりして返ってこなかったり返ってくる前に買ったりして、どうしようもないので改めて買って「絶対保存棚(貸さない・売らない・捨てない)」に格納されました。

異邦人の到来に始まる文化的(民俗的・民族的)境界における摩擦と混乱というテーマは実に魅力的です。ル=グィンはこれを異界の惑星を舞台に展開します。惑星文化人類学みたいな呼び方になるでしょうか。『闇の左手』は2つの国家がある惑星に、外の世界から異邦人(主人公)が訪れるという筋立てです。2つの国家それぞれに歴史と文化があるわけですが、その書き込まれ方が素晴らしい。全てのフィクションは現実の写像ですが、ル=グィンの世界はその写像が実に深い。深すぎて読んでいる間は「あっち側のヒト」の気分になるので、現実世界の方が写像にみえる。この折り返しの鏡像的な感覚はやみつきになります。

この深みは、単に設定が凝っているというだけではありません。その設定を異邦人の目線で探索的に切り出す面の取り方が秀逸です。万華鏡のようにそれぞれの絵を見せながら、それらの背景にある作品表面には書かれていない分厚さを連想させます。そして更に、その絵の中で動く群像の魅力は読者をぐいぐいと「あちら側」に引っ張り込みます。

あえて言えば、ル=グィンは「女流」SF作家です。舞台となる惑星ゲセンの民は両性を行き来する“ジェンダー的に平等”な人々です。この舞台装置はもちろん意図的に設計されたものです。そして本作は「女性」作家によるSF小説として初めてヒューゴー賞とネビュラ賞を受賞しました。このような性別を付した表現は本質的に不当です。何も書かずとも平等に評価されるのが当然です。しかしここでジェンダーの問題に触れず、何もなかったかのように装い目を背ければよいというものではありません。前に書いたことの繰り返しになりますが、SFに対してオトコノモノガタリを主張するむきもありますが、言うまでもなく最古のSF小説といえばメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818年)でしょう。SF小説がオトコノモノだったことは人類史上一度もありませんので、そうした幻想・妄想はナンセンスです。この点についてはまた改めて書きたいと思います。


2022年1月