Michael Ende(著), 大島 かおり(訳), 岩波書店, 1976年 [link]
この本は、全ホモサピの必修単位だと思っています。
初めて読んだのは小学生の頃だと思います(親の本棚にあった)。あの頃に読んだものは面白いぐらいディティールが脳裏に貼り付いています。この本は当時に映画化されていたはずで、地域の公民館(映画館が近くになかった)で観たそうです。僕本人はまったく覚えてないんですが、映画に出て来た「灰色の男たち」が怖くて泣いたそうな。いやホントに覚えていない。その本はかなりボロボロにしてしまいましたが、まだ実家に残っているはずです。先日、無性にこの本を読みたくなって改めて買いました。ハードカバーのこの箱入り装丁が、いやはや、懐かしいですね。
エンデの本の中でもこの本はキャッチーな設定でかなりダークな風刺を入れているので、何と言うか、生き方の根底に横たわっているものを蠢かす怖さを持っているように思います。ジャンルとしては児童文学ですが、「忙しいオトナの生活」に囚われそうになった時に何度でも開いていきたい本です。
「完全無欠なビビガール」などは、ヒトに関わるあらゆる仕事(例えばロボティクスや芸術)において必須のエピソードだと思います。想像の余地を残さない表現は強いるからツライことがあります。
例えば映画は音楽と画像と音声と動作(と字幕などの文字)が全部一度に入って来て、ものスゴく情報はリッチですね。それらは観る側の知覚機能を特定のエネルギー状態に励起させる作用を狙って総合的にデザインされているわけです。
これに対して文字だけで書かれたモノには、文字通り文字しかありません。読み手が読むスピードも、場所も、状況も、書く側は何一つ縛る事ができません。情報の圧縮率が高いため情報の損失が大きく、映画に比べたら飛車角落ちという状況です。なので読み手を狙った状態に励起させられる力のある文章を書くのは、高度な技術が必要なんだと思います。しかしエンデが書くように、だからこそ自由の余地があるんだと。「ビビガール」が黙っていてくれたら、いくらでも想像の翼で「喋らせて」あげられるのに、とモモは嘆くわけです。
これは表現する側の問題でもあるし、同時に、読み手の問題でもあります。読解力云々という声も聞きますが、「読むチカラ」(読む技術ではない)というのは、本質的には、この自由の翼のことであろうと僕は思います。
役に立つことを教えよう、役に立たないものは削ろう、点数という成果で全てを図ろう、無駄は省いた方がいい、暇や孤独は悪いものだ。何やらこんな声を近頃(というかいつの時代も?)よく聞くように思います。そんな時には、この本を読んで、自分の翼を改めて点検しておきたくなります。
2019年3月30日