これどっから出てきた言葉なんだろう、と。
気になって調べてみたらどうやら玄奘三蔵に辿り着いてしまってたまげた。彼の手によるインドの仏教論理学の入門書の漢訳『因明入正理論』には、「能立与能破 及似唯悟他 現量与比量 及似唯自悟」と載っているそうです(師「明治における因明研究」, 2015)。漢文スキルはもう目も当てられないですが、超訳すると「(論を)立てる能力と(論を)破る能力によってのみ悟他におよび、現実を測(量)ったり他と比べて推論することによってのみ自悟におよぶ」となります。
これはみんな大好き2分法になっていて後段の「自悟」は何となく自分の内側で色々考えて理解に至るといったイメージですかね。そうすると「悟他」は自分の外側にあるものを手掛かりに理解に至るという意味でしょうか。少なくとも「他二悟ラセ使ム」といった攻撃的な(使役的な)用語ではなさそうです。こういう「論破」なら馴染みがあります。例えば帰無仮説検定なんてのは典型的で、全く等しいと仮定した(立)うえでそれを棄却する(破)ことで現象(他)を理解(悟)しようとするので、まさに「悟他」にみえます。つまり何が言いたいかというと、「論破」を通じて他を「悟る」のは自分です。
「はい論破!俺の勝ち!お前の負け!」とは随分とイメージが違いますね。こんな風に暴力的に使われるのを目にする言葉ですが、根っこにあったのは、ああこれなら分かるというもっと内省的な概念でした。
大学生や大学院生の間でよく言われるジョークに「素人質問で恐縮なのですが」というくだりがあります。文脈としては、例えば発表に慣れていない学生さんが、無理筋だったり飛躍のある論理展開でトークをしていて、それに対する質疑応答の際に、大先生が論理的飛躍や矛盾を突く(従って発表者にとって厳しい)質問を投げかける、という場面が想定されているわけです。 面白おかしくふざけるにはどうぞという感じですが、実際のところ、論理が破綻しているような学会発表は時々あります。そんな時どうするか。その匂いが漂ってきた途端席を立つようにしていますが、面倒だったり自分が喋るのと同じセッションだったりすると中々そうもいきません。
喋っているのがオトナだったら、誰も何も質問が出なくて終わりです。座長にあたったら悲劇ですが「よく通るイイ声ですね」みたいな無意味で好意的にみえるコメントをして「はい、時間になりましたので、」という風に全力で逃げます。その演題についてそれ以上何か議論したところで時間と労力の無駄ですし、そのヒトを変えてやろうとか良くしてあげようなんてお節介をやく場では無いですし、経験上、こういうケースでは論理の破綻や矛盾を客観的に指摘しても冷静なディスカッションは不可能なことが多いので、速やかにお帰りいただくのが誰にとってもベターな選択肢になります。
発表しているのが学生さんだったら。まずは指導教官いいかげんにしろよ、ですね。こんなので前に立たすな可哀想だろう仕事しろよと思います。あとは学生さんにもし熱意がありそうだったら「あなたの指導教官はアホだ」を最大限オブラートに包んだ言い回しで質問している風のコメントをしてあげます。熱意がなさそうに見えたら、僕の対応は上に挙げた通りです。こうしたプロセスは、見ようによっては上に挙げたジョークと同じように見えるかもしれませんが、学生さんを責めているわけではなく、まして、叩き潰すとか凹ますとか矛盾を暴き出すとかそんなことには全く興味がなく、単により良い研究やより良い発表の実現が目的です(もうちょっと勉強しろよぐらいの意図は込めるかもしれませんが)。んー、ま、何というか、こういった学生さんの場合は例外ですが、学会というのは発表者を教育する場では全くありませんので、本来は筋が違います。
じゃあ何をする場なのかというと、まずは自分が学ぶためです。そのための、言うなれば「能立与能破 現量与比量」する場です。もっとよく知りたい、周辺知識を増やしたい、先端的な状況に触れたい、などなど。これは基本的には自己完結しますが、例外はコラボレーションです。同じ方向性をみていて違うアプローチを持っていたり、逆に違う方向性をみながら同じアプローチをとっていたりするヒトと一緒に仕事をする機会はとても大切で、多くを学べます。結局のところ、こうした自分が学ぶための場において「隙あらば他人の論を打ち破ってやる!」みたいなモノが入る余地は本来は無いんですよね。
ただし、時々、これは本当に時々ですが、他人の発表の矛盾点を突いて悦に入るというキトクな趣味をお持ちの方が紛れ込んでいるケースもあります。この手合いは自己認知の中では「矛盾点を蔑ろにせず指摘することで相手もそれを知り今後は正しい発表ができるようになり、学会もより良いものになる」みたいな正義観を持たれている方もいらっしゃいます。なんだか「客が店を育てる」みたいな論理ですが、それを「客」の側が言っちゃあおしめぇよ、と思いますね。「よ〜し今夜は一丁気合いをいれて店を育ててやるか」みたいな「客」ではなく、そのお店で楽しみたい、豊かな時間を過ごしたい、そういう客の純粋な思いの積み重ねがあり、来し道を振り返った時に「あの頃のお客さん達には本当に育てていただいて」と語るのは「店」の側なわけです。
近頃、A vs. Bどっちが相手を「論破した」だの、だから正しいだと、勝ちだの負けだの、そんな話を耳にします。その度に、そうじゃねーだろな、と感じます。AはBについて学び、BはAについて学ぶという姿勢がまず最初に来て、次はじゃあこれからより良い世界のためにどうやっていくのか一緒に考えましょう、ということでは無いのだろうか。「論破」という言葉を他者に対する攻撃的な意味には使わず、自分の中にある既成概念を壊し、自分の外側にあるものを学ぶプロセスとして再認識していきたい(という論破の記録でした)。
2019年11月20日